新着情報

2016年12月6日(火)
 12月議会一般質問について
2016年9月8日(木)
 ・9月議会のお知らせ
 ・湯浅止子後援会2016年度総会のお知らせを掲載しました。

2011/04/26

ようやく

選挙戦はようやく終わりました。
市川市民の皆様から1,626票を投票していただきました。
今後四年間の活動の糧として力を尽くしてまいりたいと思います。

3月11日から続く東日本大震災の影響でしょうか、投票率が低く選挙への関心が薄れてしまったのが、残念です。
今こそ日本の民主主義が試される時だと思っています。

2011/04/16

いよいよ

3月11日に起きた東日本大地震と津波によって、生活が大きく変わってしまいました。市川市やとなりの浦安市でも液状化や地盤沈下が起きました。市内では被害の大きかった塩浜地区の住民の方のお話を聞き、ほかにも塩浜中の被災状況を校長先生に案内していただきました。実際に現場を見るとその被害の大きさに衝撃を受けました。埋め立ての地域だけではなく、市川大野駅の周りにも地震の傷あとが残っています。
震源地から離れた市川市でもこの状況です。被災地の方々の心中はいかばかりかと、思いをはせます。

明日から市川市議会議員選挙が始まります。42名の定数のところに55人前後の立候補が予定されています。大激戦が予想されます。
選挙の準備に追われ、予断を許さない原発の状況とそれによる計画停電、余震の影響で、忙しくしているうちに満開の桜も葉桜になってしまいました。今年はお花見をする心の余裕がありませんでした。

明日4月17日から1週間、湯浅止子は政策を訴えるため市川市内を駆け巡ります。見かけたら、お声をかけてくださると嬉しく思います。

投票日は4月24日です。

2011/04/11

いちかわの美女

真間の手児奈

むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりはじめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には舟のつく港があったということです。

そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいてのみ水にすることができないので、困っていました。ところがたった一つだけ、「真間の井」とよぱれる井戸からは、きれいな水がこんこんとわきだしていました。だからこの里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりはいつもにぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます

この水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。

井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。

「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」

「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」

「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはせさまい。」

「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」

などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだっということです。

手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのためには、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、

「私の心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょう。」

といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下に向かって歩いていきました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。

手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしよう。あの夕日ようにわたしも海へ入ってしまいましよう。」
と、そのまま海へ入ってしまったのです。

追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげれぱよかつたのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。

翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそぱに手厚くほうむりました。

真間の「手児奈霊堂」には、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。

また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。






大きな地図で見る

市川は民話の宝庫です。

市川は民話の宝庫です。
「真間の手児奈」「八幡のやぶしらず」「平将門」などの有名な話のほかにも、おもしろい話やかなしい話など600以上の民話が語り伝えられています。
語りや紙芝居などで市川の昔を知り、民話の世界を味わいませんか?

市川の代表的な民話の一つ、今でも続いている国府台の辻きりをご紹介します。
4匹の大蛇が今年も国府台を守っています。

辻切り(つじきり)

むかしむかしあったとよ。
今から五百年ほど前の室町時代のこと。市川の国府台の辺りは、まだ草深いいなかで、村人たちはお百姓をして暮らしていました。
そのころ世の中はたいそう乱れていました。
国のあちこちで戦の絶える間がありませんでした。
市川でも、戦さのあるたびに、田畑はふみ荒され、人びとは不安な毎日を送っていました。

そんなある年のこと、春から天候が不順で稲の育ちが悪く、村人たちはたいそう心配をしていましたが、夏になって暑い日が続き、秋には豊かに実りました。ところが、さあ刈入れというところで、一晩恐しい台風にみまわれ、田畑の作物は、吹きとばされ、おし流されて、春からの苦労も水の泡となってしまったのでした。
そのうえ、台風のあと国府台付近の村から悪い病気がはやりだしました。一度その病気にかかると、高い熱が続き、下痢や吐気が止まらず、体がかさかさにひからびて死んでしまうのです。

村人たちは、家の戸をかたくしめて、ただ神さま佛さまにお祈りするばかりでした。やがて冬になって、木枯しの吹くころになると、さすがの病気もおさまりました。村人たちはなんとか元気をとりもどし、新しい年を迎えると、氏神さまの天満宮に集まって正月の祝酒をくみかわしました。

「全く去年は、ひどい年だったのう。」

「今年は、いい年にしてぇもんだ。」

「なんかいい方法はねぇだんべか。」

村人たちは、あれこれと考えましたが、なかなかいい考えが思い浮かびません。
そのとき、ひとりのじいさまが口を開きました。
「これは、都からきた坊さんから聞いた話だがな、上方の村々では、大蛇を作って村の四すみにおくそうじゃ。すると、その蛇が、いろいろな災いが村にはいるのを防いでくれるのだそうな。これは、都の天子さまのご殿からはじまったことなのだそうじゃ。ひとつこの村でもやってみたらどうじゃろう。」
村人たちは、わらをもつかむ気持ちで賛成しました。

次の日、村人たちは、わらをもって、天満宮の境内に集まり、大蛇作りにとりかかりました。まず、わらを、たて、よこに組み合わせて頭を作りました。そこへ、わらの灰を包んだ半紙を丸くして、まん中にすみで目玉をかいたものを二つ作ってくくりつけ、目玉の上にはびわの葉をさして、耳にしました。それから、その頭と別に作って置いたわらの胴を結びつけると、二メートルあまりの大蛇ができあがりました。その大蛇の首に、将棋型の板をとりつけ、「村内安全」と書きました。こうして四匹の大蛇ができあがると、この大蛇に、いきおいよくプーッとお酒を吹きかけました。これは、村を守ってくれる大蛇にお酒を飲んでもらうためです。

村人たちは、できあがった大蛇をかつぐと、村の入口にあたる東西南北の四つの辻の大木にからませました。こうして、大蛇は来年まで風雨にさらされながら、嵐、日照り、悪病など、あらゆる災いから村を守るために目を光らせたのです。
その年は、天候にも恵まれ、悪い病気もはやらず、村人たちは、豊年祭をすることができました。
それから国府台では毎年一月十七日には、氏神さまの天満宮に集まってわらの大蛇を作り、古い大蛇ととりかえることになったのです。

やがて方ぼうの村むらでも、村の辻つじ(十字路)に大蛇をおくようになり、いつしか「辻切り」とよばれるようになりました。
今でも国府台では昔のままの大蛇が東西南北の四つの木の上から目を光らせて災いから守ってくれているのです。




市川の図書館のホームページにもいくつかの民話が掲載されています、
http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1018.html

2011/04/03

市川市からの情報

このたびの地震は、津波をひき起こしました。
市川市内でも、液状化による地割れや建物の倒壊、地盤沈下が起きました。

電気、水道、下水道、ガス、通信などライフラインが寸断された地域が市川市内でもありました。
子育て中の方、ご高齢の方、障がいをお持ちの方、おひとり暮らしの方々から不安の声が上がっています。行政だけではなく、日頃の声かけが地域社会を再構築することの必要性を感じました。
安否確認や避難などは最低限のことと思います。日頃のお付き合いが、大切ですね。


市川市の情報です。
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cri01/saigaiportal.html

塩浜地区の被災状況

液状化した校庭(行徳高校)








ハイタウン塩浜





塩浜中学校






塩浜中にて、校長先生から説明を受ける